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練吉は小学校時分のことを思ひ出したのかふいにをかしさうに笑ひ声を立てた。
彼はこの「黒」と呼ぶ馬を非常に愛した。彼の家の裏に、大きな納屋があつて、納屋の隅が馬小屋風に床板を張り羽目板を張つてあつた。彼はひまさへあれば馬小屋に出かけた。次兄が馬の世話をする役であつたが、房一はその傍に煩うるさくつきまとつて離れなかつた。次兄は馬の世話をするのはそれほど好んではいなかつたが、あまり房一がつきまとふので、一種の矜持きようぢを感じて来て、房一には少しも手出しをさせなかつた。それで、房一は次兄の眼をぬすんで、馬に水をやつたり手から草を喰べさせたりした。馬が草をむしるやうにして喰べる、その度に房一の手に快い動きがつたはつて、彼は身ぶるひのつくほどうれしかつた。夏の夕方、馬に水浴をさせる、それが彼には何より楽しみであつた。次兄が彼を馬の背に抱へ上げてくれる。彼は小さい身体を弾はずませて、鬣たてがみを指の間でしつかりと捉む。次兄が彼の背後にのつて、彼等は蒼然と暮れかゝる家の前の路に出る。日は大分前に落ちているが、空はまだすつきりと明あかるい。路の傍の青田の上にうす青い影のやうなものが一面に漂つて、どこからか煙の匂ひがする。土堤から河辺に下りる路は狭く急だ。馬ががくりとその路に足を踏み下すと同時に、背上では房一と次兄が大きく前のめりになりさうだ。危く左右に揺れて岸辺に出る。水面は黒く青く、遠く白く光つている。腹まで水に漬つかる場所に来て、馬は鼻面でちよつと水にふれ、首をふる。房一の足にもう少しで水がとゞきさうだ。瀬の音が急に下手から水面を匍ひ上つて聞える。房一はわざと鬣から手をはなしてみる。落ちはしない。彼はふりかへつて兄の顔を見て微笑する。彼は自分一人で馬に水浴びさせたいと思ふのだつた。
「うむ」
「お噂はうけたまはつています」
並んで立つと、いきなり
小谷はしばらく放つていた糸を手許にひきよせて、水の中の鮎を眺めながら云つた。
「何をするかつ」
気がつくと、房一はさつきよりもぽつと明い、青味を帯びた中を走つていた。いつのまにか月が出たのだ。鉄橋を渡つて、町の中に入つた。月明りはこの人気の少い町一杯に輝いて、うるんで、物の形を一様な柔い調子の中でくつきりさせていた。
と、盛子は大げさに滑稽な顔をしてみせた。
「わたくし儀ぎ、金がなければお前様まえさまとも夫婦になれず、お前様の腹の子の始末しまつも出来ず、うき世がいやになり候間そうろうあいだ、死んでしまいます。わたくしの死がいは「た」の字病院へ送り、(向うからとりに来てもらってもよろしく御座ござ候。)このけい約書とひきかえに二百円おもらい下され度たく、その金で「あ」の字の旦那だんな〔これはわたしの宿の主人です。〕のお金を使いこんだだけはまどう〔償つぐのう?〕ように頼み入り候。「あ」の字の旦那にはまことに、まことに面目めんぼくありません。のこりの金はみなお前様のものにして下され。一人旅うき世をあとに半之丞。〔これは辞世じせいでしょう。〕おまつどの。」
房一は笑つていた。
今さつきまで誰もいなかつた通りの、ずつと先きの方から黒い人影が歩いて来るのである。袴をはいて小さな風呂敷包か何かを抱へている、そのやはり背高な、直立したまま急ぎ足に歩く恰好はまぎれもない町役場の書記の今泉だつた。
神原喜作は、殊に自分が最初に口火を切つた責任者だといふ自覚があるらしく、あのづぶ濡れになつた下半身がいつのまにか生乾きになり、寒さのために硬はゞつた裾をばくばくさせ、方々を歩きまはつて説いた。練吉はその間、一種異様な緊張さを現していた。彼は、ごくたまに目瞬きをしていたが、顔はかつて見せたこともないやうな生真面目さで蔽はれ、時々さつと青ざめ、焚火の前に来ると俄かに紅らみ、絶えず房一の傍から離れなかつた。
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